「鎌倉歴史散策」事前連載読物第6回

「鎌倉歴史散策」事前連載読物第6回をお届けします。                        副会長・幹事長 小林敏二 

   *********************************************           

               落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第6回)

                             和田家30世 和田高明

 和田義盛とはどんな人物だったのでしょうか。三浦市の来福寺にある木像が本人の面影を残しているならば、無骨ながら慈愛に満ちた容貌をしています。大局を摑んで行動力があり統率力に優れているが、細かな事務的なことは苦手だった29代目に通じるところがあります。およそ官吏とは程遠いのです。800年以上を経てもなお筆者の従兄である30代目、そして31代目に風貌が似ています。三浦市の神明白旗神社には青銅製の義盛像(御神体)が安置されていたのですが、何時の頃か失われ行方不明となってしまいました。(盗難でしょう。)

 彼は駆け引きを好まず、感情を繕わず直截的に表して潔さを旨として情を先に立てる。考え方は、あくまで古代武人であったのでしょう。この好例として、建久6年(1195)、頼朝は東大寺再建のために上洛しましたが、三浦党と足利氏の間で騒動が起きます。この時真っ先に義澄の許に駆け付けて気勢を上げた中心に義盛がいたのです。本来ならば、騒乱を鎮める立場だったにも拘らず、です。また、領地経営から経済流通に関して時代の変化に対応できなかった面もあったと思われます。そこのところが、従弟の三浦義村と相容れぬ対立点だったのでしょう。平六義村は、北條氏の意図を推し量ったうえで自らの行動を決する、はた目には優柔不断なところがありました。義村にとっては、義盛は先のことを考えずに独断で行動を起こす粗野な奴と映っていたはずです。義村は、一族内での優位性を先に立てて、真の敵を見誤ってしまったのです。北條氏は、最終的に三浦一族を排除するのだということを。比企氏、畠山氏のことだけでも思考すればすぐに判ることでした。ほかにも千葉廣常、一條忠頼、安田義貞・義資父子の殺害等があります。結城朝光の夢見の話から端を発した梶原氏殲滅などは、巧妙に仕組まれた北條氏の罠でした。義時の妹阿波局まで加わっています。これには義盛も義村もまんまと乗せられてしまったのでした。

 宝治合戦(1247)で三浦宗家が滅亡した後、三浦介の称号は佐原流に認められるのです。佐原流とは義明の末の息子義連の系統なのです。

 頼朝の後を継いだ頼家にも三浦一族は支柱となっていました。三浦一族はあくまで源氏の御家人でした。その中心にいたのが和田氏でした。正治2年(1200)9月、頼家は小坪を遊覧し三浦一族が歓待したときのことです。座興として義盛の三男義秀が水練の芸で鮫を生け捕ってきた褒美に頼家が名馬を与えようとしました。ところが長男の常盛が相撲では負けぬので、名馬は勝者に与えたまえと申し出たので、取っ組み合いが始まりました。なかなか勝負が決せずに、義時が引き分けを提案した途端、常盛が当の馬に跨って駆け去ったので義秀が地団太を踏んで悔しがったという話が残っています。

頼家の子善哉丸(公暁)の乳母は義村の妻でした。将軍家と三浦一族の結びつきは強固だったのです。しかし、北條氏は三浦氏にも懐柔の手を伸ばしてきました。泰時の妻に義村の娘を所望してきたのです。後に矢部禅尼と呼ばれる人です。(後年離縁されています。)比企氏殲滅はこの段どりの後に行われ、頼家は修善寺に幽閉され、頼家に引導を与える役は義村が担いました。北條氏の手先となったのです。次に狙ったのは畠山氏でした。この時ばかりは、義時も父の陰謀であったことを見抜き非難しています。手遅れでしたが。

 7➀1和田義盛公像:来福寺.jpg 7➀2和田義盛旧里碑.JPG 7➀3和田城址.JPG ←クリックしてください。

 写真左から和田義盛像 三浦市・来福寺蔵、和田義盛旧里碑、和田城

                               <以下次号>