「第6回鎌倉歴史散策」事前読物第9回(最終回)をお届けします。
これまで連載をお読みいただきありがとうございました。
いよいよ6月11日に「第6回鎌倉歴史散策」が催行されます。
この連載を予備知識として散策いただくと、さらに興味も増すであろうと存じます。
副会長・幹事長小林敏二
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落魄の一族 ――和田一族 先祖語り―― (第9回)
和田家30世 和田高明
南部に逃れた兄弟たちは先に逃れていた畠山の子孫(浄法寺氏)の許で家臣として血脈を繋ぐことができました。あれこれあって、いずれも南部藩士として明治維新を迎えます。畠山氏は、当初南部氏の客将でしたが、何時の頃からか南部の家臣となりました。有力な重臣でしたが、1600~01年の岩崎の陣での落ち度を咎められて改易され(その家臣であった我等和田一族も)、新田開発の功で御家再興を認められるまで数十年にわたって浪々の身として辛酸をなめています。これは、南部氏の外様粛清の犠牲になったものです。畠山は東北潜行時に浄法寺と名を変え、浪々の身となってからは松岡と更に改名しています。我らは、浪々の身となってからは大森と名を変えておりました。
*岩崎の陣:豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったために所領没収となった豪族の中に葛西晴信・大崎義隆・和賀義忠・稗貫廣忠等がいた。1591年、南部信直に対して起こした九戸政實の乱終結後、秀吉の奥州仕置に不満を抱いた和賀氏・稗貫氏等は、仕置軍引揚げの後に蜂起したが鎮圧された。1600年になって、領土拡大を企てる伊達政宗に扇動された和賀忠親が、旧領奪回をもくろんで岩崎城を拠点に南部氏に対して起こした反乱は、翌年南部利直によって制圧された。この岩崎城攻めの際の落ち度を咎められて浄法寺氏は改易となった。
ほかの三浦一族の行く末について。三浦介を継承した佐原流は戦国大名に成長し三浦義同(道寸)に至りますが、北條早雲に攻められて命脈を断たれます。終焉の地は油壺の新井城でした。また、佐原流の分かれである芦名系は、奥州合戦の恩賞として与えられた会津に勢力を張り戦国大名として東北に名を馳せますが、伊達政宗に敗れ果てるのです。極め付きは石田三成です。木曽義仲を討ち取って近江山室保(長浜市石田町)を与えられた石田為久の子孫は三成に至りますが、最期は国民の知る所です。三浦一族は実に滅びの一族といえるかもしれません。
和田合戦の後日譚を一つ。『古今著聞集』にある逸話です。
和田合戦から半年ほど後、元旦のことだったらしい。年頭の椀飯(おうわん)の儀式に、御家人多数が幕府侍所に参集したときのこと。三浦義村も、当然出仕することになっていましたが、義村の出仕はやや遅れていたようです。日頃から義村の座と決まっていた上席が、下総守護千葉介成胤の子、若年の胤綱によって占められていたのです。そこに現れた義村は思わずかっとなり、
「下総の犬は、臥所(ふしど)を知らぬな」と睨みつけました。
途端に振り向いた胤綱は、即座に気色も変えず言い返したのです。
「三浦の犬は、友を啖(くら)うなり」
これが同族を裏切った三浦党に対する、一般御家人の感情だったのです。
最後に奇跡?を。
わが曽祖父は戊辰戦争の時、南部盛岡藩の兵士として、官軍に寝返った秋田久保田藩と戦いましたが、鉄砲玉に中ることなく生き残っています。また、第二次世界大戦においては、わが父は海軍で朝鮮航路の商船に乗って行き来していましたが、船が機雷に触れて沈没したものの無事で、沖縄戦線に行かされずに済みました。父の兄は矢張り海軍で激戦のラバウルに行きましたが無事帰国を果たしています。弟は陸軍で樺太50度線を守備し、ソ連と戦いながらも生還。父の甥(和田家30代)と母方の従弟は志願して予科練に行きましたが、出撃前に終戦
となり生還。このように5人出征して誰一人弾に中ることなく無事生還したのです。先祖から一貫して不動尊・毘沙門天のご加護が続いていると申せましょう。
<了>