「鎌倉歴史散策」事前連載読物第7回

 「鎌倉歴史散策」事前連載読物第7回をお届けします。

「鎌倉歴史散策」は、6月11日に実施することで、先日会員皆様にご案内をし、参加募集を開始しました。

 募集人数に限度がありますので、ご希望の方は早目にお申し込みください。

                            副会長・幹事長小林敏二

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         落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第7回)

                           和田家30世 和田高明

頼朝存命中、国司就任は源氏系の御門葉・源氏と同等の扱いを受けた准門葉に限られていたのですが、頼朝亡き後北條氏がこの慣習を破ったため、義盛が対抗心で上総国司を願い出たものの、北條氏の嫌がらせを受けることになります。義時は認可をいつまでも引き延ばしたため、業を煮やした義盛が申請を取り下げたことで実朝の怒りを買うという事態になったのです。承平3年(1209)のことです。また、義村の代官が小笠原御牧で京都朝廷の牧士と紛争を起こしたのを機に、義時は義村の奉行職を解任し、佐原景連に替えたのです。当時、御家人から没収された所領や諸職は同族の他の者に与えるという慣習があったので、これに従ったかに見えますが、三浦一族の中でも三浦本宗家より佐原流を優遇して亀裂を生じさせる処置です。義時の、三浦党(中でも和田)に対する挑発が続きました。

実朝に子がない為、君側の奸義時を討伐して、頼家の遺児千寿丸を実朝の後継に押し立てる計画が密かに立てられたものの、建暦3年(1213)2月、事前に露見して事は未遂に終わりました。信濃武士青栗七郎の弟僧阿静坊安念が千葉介成胤を味方に引き入れようとしたものの、彼にその気持ちは全くなく、安念を捕縛して義時に引き渡したのです。

安念が自白したことで事の次第が明らかになりました。この陰謀の首魁とされたのは信濃小泉荘の泉親衡(親平)でしたが早々に逐電して姿を晦ましてしまいました。(彼は下北へ逃亡し、南北朝時代まで地頭を称していました。)義時は、自白で名の上がった義盛の四郎義直・六郎義重・甥の胤長を捕えました。3月8日、この知らせを聞いた義盛は所領の上総伊北荘(千葉県いすみ市・勝浦市辺り)から鎌倉に駆け付け、直接実朝に釈放歎願をしたのです。義時が近侍していなかったので、過去の忠勤や軍功を言い立てて情に訴え、息子二名を連れ帰ることができました。しかし、翌日、一族98名を従えた和田平太胤長の身柄引き渡しの要求は義時に拒絶されて実朝の許しを得られず、皆の目の前を引き立てられて二階堂行村に引き渡されたのです。17日には早くも陸奥国岩瀬郡(福島県西部)に配流。露骨な義時の挑発でした。

この胤長は和田合戦の後5月9日に殺害されたことになっていますが、実際は安東氏に救いを求めて逃亡しています。

 更に慣例に従って義盛への胤長邸返付許可を義時は取り消して自分のものとし、義盛の代官を叩き出す挙に出たのです。あからさまな義時の挑発です。義盛の辛抱も限界でした。

和田氏与党に密使が立てられました。武蔵横山荘(八王子市)の横山時兼、相模山内党の山内政宜、岡崎実忠(佐奈田義忠の子)、相模渋谷荘の渋谷高重、相模中村荘(中村党)の土屋義清(佐奈田義忠の実弟)、相模毛利荘の毛利景行、相模鎌倉党の梶原朝景(景時の弟)、横山党の庶流古郡保忠(義盛の次男義氏のこと)等で、幕府の西北隣に屋敷のある三浦義村からは「挙兵と同時に幕府北門を襲うべし」との起請文を出させて準備が進められたのです。横山党は強力な味方でした。常盛の母は前棟梁時廣の妹で、常盛自身は現棟梁時兼の妹(母の姪)を妻としていたのです。それにしても北條氏の和田に対する警戒と諜報活動は極めて長けていました。和田一族の挙兵の企ては、事前に義時に察知されていたのです。頭脳戦において、北條氏ははるかに三浦・和田を凌駕していたのです。

7②2天養院薬師如来坐像.jpg 7④毘沙門天立像[矢請毘沙門天]:清雲寺2.tif 7③1神明白旗神社.JPG ⇐写真はクリックすると拡大します。

天養院薬師如来坐像 青雲寺毘沙門天立像 神明白旗神社

                               <以下次号>