「鎌倉歴史散策」事前連載読物第4回

6月11日予定「鎌倉歴史散策」の事前連載読物第4回を掲載します。企画のお知らせと参加募集まで、もう少々お待ちください。

                            副会長・幹事長小林敏二

***************************************************************************              落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第4回)                                                         和田家第30代 和田 高明

 頼朝軍が房総半島西岸部を北上する間に、味方するものが続々と集まってきました。去就が危ぶまれていた上総権介千葉廣常も遅ればせながら二万騎の大軍を率いて参会したのです。こうして隅田川まで進軍したときに問題が生じました。衣笠城を攻撃して落城させ、三浦大介(みうらおおすけ)三浦義明を戦死させた畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの秩父党が降伏してきたのです。気色ばんだのは源軍の中枢である三浦党でしたが、頼朝が何とか言いくるめて味方に組み入れたのです。これで海の雄族三浦党、陸上最大勢力の秩父党が頼朝軍を支えることとなりました。

 頼朝は鎌倉に入ると、先祖ゆかりの八幡宮(由比若宮)を遷座して(鶴岡八幡宮の現在地に)都市建設に取り掛かります。1020日、富士川の合戦で平家軍を打ち破った東国軍は、3日後の論功行賞で三浦義澄に三浦介(みうらのすけ)の称号を許し、彼が三浦党の惣領であることを認可しました。また11月には侍所を設置してその別當に和田義盛を、所司に梶原景時を据えました。これで幕府御家人を統べる義盛と、三浦党をまとめる義澄の二重体制ができ、三浦党に複雑な構造が出来上がったのです。

 寿永2年(1183)末、平家打倒出撃反対の中心人物千葉廣常が、頼朝の命を受けた梶原景時に誅殺され、続々出陣していった東国武士は、翌正月、京都を占領していた木曽義仲を撃破しました。義仲の首を挙げたのは、三浦党の石田為久(相模石田荘)でした。生け捕りにされた巴御前が鎌倉に引き立てられ、義盛に預けられたことで、豪勇で名高い義秀が巴の子であるとの俗説がありますが、彼は既に誕生しております。

ついで一の谷合戦では義経に従った三浦義連らが活躍。そして元暦2年(1185)3月、壇之浦合戦にて平家を滅亡させました。最後の決戦の時、三浦義澄は周防国残留で連絡路維持を命じられましたが、義経によって道案内を託され、戦闘に参加することができました。一方義盛は、源範頼の戦目付として豊後に渡り、直接海戦には参戦していません。しかし、渚から盛んに遠矢を射かけました。3町ほどなら命中させたというからすごいものです。

源平合戦後逃亡していた義経の居所が知れたのは、文治4年(1188)2月のこと。翌年、頼朝は全国に義経・藤原泰衡追討の軍事動員をかけました。恐れをなした泰衡は義経を襲い自殺に追い込むも、頼朝自ら藤原氏打倒に出陣。藤原軍は防戦空しく敗れ、泰衡は部下の裏切りにあって殺されました。頼朝はかつて頼義が安倍貞任を討った厨川に進撃し、自分が頼義の正統な後継者であることを示したのです。

進軍の途中、和田義盛は頼朝直属の大手軍にいましたが、阿津賀志山(福島県伊達郡国見町大木戸の厚樫山)で西木戸國衡(泰衡の兄)を打ち破り、武士の情で逃がすということがありました。これを見届けた畠山重忠配下の大串次郎が、國衡を追尾して討ち取ったので、怒ったのは義盛です。一族共々頼朝の幕下を離れ、奥州津軽の安東氏に食客しようとしたのです。驚いた頼朝は義盛をなだめ、岩見澤の地(秋田県山本郡三種町下岩川字岩見沢)に一族数名を残して鎌倉に帰着したのです。義盛の男気を表すエピソードです。

 5③1元八幡.JPG 6②薬王寺跡、杉本義宗・三浦義澄墓所.JPG ←クリックしてください。

 元八幡(材木座) 薬王寺墓所(横須賀・大矢部)

                                                           <以下次号>