「鎌倉歴史散策」事前連載読物第3回

6月11日に予定される「鎌倉歴史散策」の事前連載読物第3回です。

目下、担当役員が歴史散策の催行に向けて準備を進めています。

どうぞご期待ください。

末尾の催行予告もご覧ください。

                           副会長・幹事長 小林敏二

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           落魄の一族  ――和田一族 先祖語り―― (第3回)

                                                   和田家第30代 和田高明

 安元3年(1177)春、三浦義澄は番役勤仕の為に上洛しましたが、間もなく鹿ケ谷の事件が起きました。平氏打倒の企ては失敗に終わりましたが、平氏と後白河院の間に亀裂が走っていることが明白となり、義澄にとっては希望の持てる状況でした。治承3年(1179)清盛はとうとう後白河院を幽閉して院政を停止させ、翌年、以仁王が平氏追討の令旨を全国の源氏に下す事態となったのです。しかし5月、挙兵した以仁王・源頼政は平氏の追手によって宇治で討死しますが、東国武士の奮戦によって平家方が勝てただけで、義澄たちは平氏本体の弱さを実感します。この間三浦では、治承3年6月、己が身の不運に絶望した杉本太郎義宗が自刃して果てています。

 一方、治承4年(1180)4月下旬には以仁王の令旨が伊豆の頼朝の許に達し、衣笠の三浦義明の許にも届けられました。このとき義明は風邪気味で伏っていましたが、佐殿からの使いに身を清め白装束に立烏帽子姿で令旨を受けたのです。6月、義澄は京都を発ち伊豆配流の頼朝に面会の後三浦に帰国。頼朝と三浦党の連絡は相模湾海路で行われました。

 満を持して、同年8月17日頼朝は挙兵しましたが、その後齟齬が目立ちました。緒戦で伊豆目代山木判官兼隆を討ち取ったものの、降り続く雨に禍されて佐々木兄弟の参着が遅れ、酒匂川の増水のために最も頼りにしていた三浦党は渡ることができなかったために石橋山の合戦に加わることもできず、頼朝の行方生死が不明となったのです。石橋山の合戦では、真田与一義忠(岡崎義實の長男)が討死しています。(2324日)

 三浦党はやむなく衣笠城に引揚げ平家軍の来襲に備えることとなりました。途中、畠山軍と由比ヶ浜で一合戦ありましたが、衣笠城で軍議が開かれました。三浦義澄・和田義盛は要害の怒田城に籠るべしと主張しますが、棟梁の三浦義明は三浦党を代表する衣笠城で平家軍を引き受けるべしと決したのです。かくして8月26日、河越重頼の総采配の下に押し寄せた平家軍と三浦党との間で合戦が行われましたが、終日の戦で城は陥ちず、夜になって軍議が行われました。

義明は、佐殿の生死が不明だが生きていると信じてお尋ね申せ、そのため自分一人を残して城から脱出せよと厳命したのです。三浦党の面々は泣く泣く夜陰に紛れて城から抜け出しました。一行は浦賀水道を横切って猟島に集結、後続を待つことになります。翌日、平家方の秩父党の総攻撃で衣笠城は落城。義明は、隙をついて城を脱出。先祖の墓所である大矢部の圓通寺の見える場所で馬が歩みを止めたため、先祖の御魂のお告げと解して、そこで腹を切ったのです。遺骸は息子の大多和三郎義久父子に託され、敵の退出後甲州の三浦寺に運ばれ納められました。一方、石橋山を脱した頼朝は、しとどの岩屋から富士東麓を抜けて道志道に入り、八菅山で船の準備を整えると中津川・相模川を下って江ノ島に至りました。こうして頼朝は須ノ崎に渡ると須崎明神に願文を収め、猟島で待つ三浦党や北條らと再会、集結となったのです。9月3日には一旦東岸に出て、三浦党は長狭常伴を撃破、義宗の無念をも雪いだのでした。この時蓬島に頼朝を匿ったのは太海の名主平野仁右衛門で、その恩賞に永代島守を認められました。現在の仁右衛門島です。<以下次号>

 5➀1三浦義明公木像:満昌寺.jpg 5➀3満昌寺.JPG 5②腹切松公園の腹切松.JPG 

 三浦義明像(満昌寺蔵)満昌寺(横須賀市大矢部)義明の腹松(大矢部・腹切松公園)

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