会員の皆様へ
昨今のコロナ問題の沈静化に伴い、当会の活動もいよいよ活発化の様相を見せてきました。
「鎌倉歴史散策」は、従来春秋の年2回開催してきましたが、これもやっと軌道に乗りそうな 状況になってきました。
この度のご案内は6月11日(日)に予定する「第6回鎌倉歴史散策」の予告です。
現在実施細目を策定中ですが、テーマを「(仮)三浦一族と鎌倉幕府」とし、鎌倉殿の十三人のうちの一人「和田義盛」を中心に、その時代の人物、出来事にかかわる寺社・史跡を訪ねます。
案内・講師は、和田義盛第30代末裔の和田高明さん(当会会員、昭和46年法学部卒。本稿筆者小林とは同級生でした。)です。
非公開施設や寺宝も拝観できるかと、期待も持てます。
実施細目の策定後には改めてご案内と参加募集をいたしますので、どうぞご期待ください。
なお実施に先立ち、講師から参考資料として「読物」を寄稿いただきましたので、以下に紹介します。以後、数回にわたり連載します。
予告チラシ2.pdf ←クリックしてください (副会長・幹事長 小林敏二)
和田家30世 和田高明
和田一族は、もともと三浦氏です。太古の頃より三浦半島で暮らし海洋民族として広く交易をしていました。半島で最大の弥生遺跡といわれている赤坂遺跡(京急「三崎口」駅すぐそば)でも暮らしていたのかもしれません。久里浜に残る吉井貝塚は三浦氏の怒田城跡でもあるので、継続して三浦一族が生活していた可能性があります。歴史学の上では、三浦氏は平家の家系であることになっていますが、系統説が4通りも5通りもあるということ自体が、強引に系図に繋げた証と云えます。三浦一族は、半島在地の豪族「海の雄」だったのです。
歴史の中で顔を出してくるのは、「前九年の役(奥州12年合戦)」(1051~1062)からです。三浦太郎が一族を率いて源頼義に従って功を挙げたことにより、正式に三浦の姓を賜ったとなっております。三浦公義と為通が参戦。為通は衣笠山に城を築き、大矢部に圓通寺(廃寺)を開基。
次に登場するのは「後三年の役(後三年合戦)」(1083~87)でのことです。この合戦は、源義家が清原氏の内紛に介入して奥州を制圧し、藤原氏が基盤を築くこととなった戦です。これには三浦為継・義継父子が参戦しています。(「為道」が義家の一字を賜って「義継」と改名)この時の戦では、いくつものエピソードが語られております。「納豆起源譚」「日本初の兵糧攻め」「新羅三郎の秘笛伝授譚」「雁行の乱れ」などがありますが、最も知られているのは、鎌倉権五郎の武勇伝でしょう。金沢の柵攻撃に先頭を切って攻め込んでいた三浦平太郎為継と鎌倉権五郎景正に、敵から矢の雨が注がれ、敵方の鳥海弥三郎の射た矢が権五郎の目を射抜いたのです。大抵ならばこれで昏倒してしまうところですが、権五郎は、弥三郎を追い回して討ち取り自陣に戻ってくると、「さあ抜いてくれろ」と仰向けに寝たのです。彼を気遣って戻ってきた為継が、片手を顔に当て矢を抜こうとするが抜けない。さればと、両手で引き抜こうと履物を履いたまま顔を踏まえたところ、景正はいきなり為継の草摺りを引き寄せ、寝ながら太刀を抜きあげて突こうとしたので、驚いた為継は、これはどうしたことかと尋ねたところ、弓矢に中って死ぬのは勇者の本望だが、生きながら土足で面を踏まれる屈辱には耐えられぬので刺し違えて死のうというのです。為継は、なるほどそれは理の通りであると謝罪し、皆で顔を抑えて、矢を抜いたという話が残されています。この権五郎は軍陣外科の祖と仰がれて、鎌倉市長谷の御霊神社に祀られています。別名「権五郎神社」。現地の横手市金沢(かねざわ)にある金沢公園には「景正功名塚」が残されています。
一方、金沢の柵の戦で景正と共に先陣を切っていた為継には矢が中らなかったのは、普段から信心している金峯山不動尊が甲冑に身を包んで、為継に飛んでくる矢をいちいち受け止めて庇護していたという話として伝えられています。横須賀市の衣笠山にある大善寺の本尊が「箭執(やとり)不動」とか「箭除(やよけ)不動」と称される不動尊なのです。為継・義継は大矢部に清雲寺を開基。
*由比若宮:奥州十二年合戦に際し、源頼義は鎌倉の地で兵を募ったが、鎌倉景道に案内させて由比郷に石清水八幡宮を勧請。この地が由比若宮(元八幡)である。<「前太平記」より>
赤坂遺跡(三浦市) 同左巨大住居跡(同) 厨川八幡宮(盛岡市) 三浦為継像(満昌寺蔵)
<以下次号>