サラリーマンから海上自衛隊海将へ 鎌倉稲門会「ワイガヤ対話セッション」開催報告

鎌倉稲門会恒例の「ワイガヤ対話セッション」が、稲門会員や現役の早稲田大学応援部員も交えて開催されました。参加者が次々に質問を投げかけながら話を膨らませていく形式の懇親企画で、今回のゲストは、サラリーマンから転身して海上自衛隊幹部となり、最終的に「海将」まで上り詰められた泉博之さんでした。演題は「サラリーマンから海上自衛隊海将への道 ~高校・大学と応援部 人材育成のキモ~」。

乾杯は旧海軍の伝統にならい着席のまま。テーブルには南極から持ち帰られた一万年前の氷が用意され、ウイスキーに注ぐと太古の空気が「プチッ」と弾ける音を楽しみながら会は始まりました。

早稲田応援部から東洋紡、そして海上自衛隊へ

昭和39年京都府生まれ、2歳で川崎市に移り神奈川育ち。桐蔭学園高校を経て昭和58年に早稲田大学第一文学部へ進学した泉さんは、恩師・田中實先生の導きに感謝しつつ、大学時代は応援部に所属。昭和62年の卒業後は東洋紡績(現・東洋紡)に就職しますが、平成2年3月に退職して海上自衛隊に入隊、幹部候補生学校へ入校します。

以後、江田島での幹部候補生教育、8か月の遠洋練習航海(世界一周)を皮切りに、護衛艦「せんだい」船務長、護衛艦「とね」艦長、護衛隊司令、護衛隊群司令、自ら指揮官として再び世界一周した練習艦隊司令官を経て、最終ポストは大湊地方隊のトップ「大湊地方総監」(海将)。令和5年12月に退官し、令和6年4月からはIHIで顧問を務めています。海上勤務13年・陸上勤務21年、引っ越しは21回、うち14回は単身赴任だったといいます。

「艦長」を育てることが自衛隊教育の根本

泉さんが繰り返し強調したのは「艦長という存在の重み」でした。自衛艦乗員服務規則にも「艦長は1艦の首脳である」と定められている通り、100〜300人の乗員を掌握し任務にあたる艦長の育成こそが海上自衛隊教育の土台であり、江田島の遠泳訓練や天測、操艦訓練は30年経っても本質的に変わらないといいます。

遠洋練習航海の目的は、部隊勤務に必要な基礎知識・指揮統率の体得、共同訓練を通じた国際感覚の醸成、訪問国との友好親善の3つ。昭和33年の開始以来、令和8年で70回目を数え、これまで86か国に寄港してきました。かつての激戦地近傍を通過する際の洋上慰霊祭は海上自衛隊だけができるものだそうです。護衛隊群司令として佐世保に勤務していた平成29年、北朝鮮のミサイル発射が相次いだ際にはロナルド・レーガンなど米空母に乗り込み調整役を担当し、洋上でもAmazonの荷物が個人宛てに届く米軍の生活水準や、当直中の居眠りへの厳罰など、規律の厳しさに驚いたエピソードも披露されました。

質疑応答も盛りだくさん

自衛艦旗(旭日旗)を掲げられない韓国・中国には最初から寄港しないという運用実態、政府間が冷え込んでいても現場の軍人同士は概ね友好的であること、旧海軍時代に不利とされた機関科出身者も今は艦長になれること、護衛艦乗組員の約1割を占める女性自衛官が節水意識を高め逆に男性の水使用量が増えたという笑い話などが紹介されました。

人口減少と省人化については、装備の高性能化で配置人数は減らせても無人機(UAV・USV・UUV)の運用には人手が必要であり、狙いはむしろ「人が死なずに済む」戦い方への転換にあると説明。国産ドローンの工業基盤がまだ弱い現状も率直に語られました。ほかにも、海上自衛隊出身の国会議員がほとんどいない「サイレントネイビー」の伝統や、防衛大学校の上下関係の変化なども話題に上りました。

会場で判明した思わぬご縁

質疑応答の中で、参加者の一人・江口さんから「せんだいにご乗艦の頃、大食いでいびきがうるさい江口という男はいませんでしたか」という質問が飛び出す一幕もありました。実はこの江口さん、ご自身のお父様が海上自衛官で、泉さんが護衛艦「せんだい」の船務長を務めていた時期に、同じ艦の機関長として乗り組んでいたというのです。世代を超えた思いがけない偶然に、会場は驚きと笑いに包まれました。

応援部で鍛えられた「言われたらすぐやる」精神

「応援部での経験は自衛官人生にどう役立ったか」との質問に、泉さんは「やれと言われたら、はい、とやる。それは応援部で鍛えられました」と即答。命に関わる訓練の現場では、指示にきびきび従うことが結果的に一番の安全につながるのだといいます。

最後は田中先生への感謝の言葉で講演を締めくくり、会場は拍手に包まれました。この後、参加者は近くの餃子店へ場所を移し、二次会が続きました。世代を超えて楽しめる、鎌倉稲門会らしい温かい一夜となりました。