薩摩琵琶を聞く会

薩摩琵琶を聴く会のご報告
古典芸能を鑑賞する会では、12月10日(火)に「薩摩琵琶を聴く会」を、北鎌倉の長寿寺で開催致しました。
演者は、鎌倉稲門会会員の坂麗水さん(坂庸子さん)です。81人の参加があり、紅葉が美しい長寿寺の庭を愛でつつ、坂さんの演奏を楽しみました。
当日のチラシ、プログラム(※すぐ下のPDFをクリックすると表示されます)とともに、参加された多摩稲門会会員の川面忠男様より寄せられた感想文(鎌倉長寿寺の庭、坂麗水さんの薩摩琵琶、屋島の誉)を紹介いたします。

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坂麗水さんの薩摩琵琶・「平家物語」より(上)

故郷の花(薩摩の守忠度都落)

鎌倉稲門会が12月10日午後、鎌倉の長寿寺で古典芸能鑑賞会を開き、同会役員の坂麗水さんが薩摩琵琶を奏した。演目は「平家物語より」。前半が「故郷の花」(薩摩の守忠度都落)、後半が「屋島の誉」(那須与一の扇の的)。81 人が聴き入った。

演奏に先立ち坂さんの解説とともに「鑑賞のためのメモ」が配付され、演目の内容を読みながら薩摩琵琶を聴くことができた。まず「故郷の花」だが、メモは以下の通りだ。

「平家の敗北が確定し、平氏の武将たちが次々と西国へと落ちる中、平忠度は一人で都内の藤原俊成邸を訪ねた。平家の落ち武者をかくまったとあれば罪に問われると、邸内は騒然とするが、俊成は開門を命じる。忠度は、匿ってほしかったのではなく、長年の和歌の師匠俊成に自薦の歌集を預けに来たのであった。

戦が終わって平和の時代になれば勅撰和歌集の宣旨もまた下るだろう、その際はこの中から一首でも採用してほしいとの思いであった。忠度は詩を口ずさみ邸を後に西国へ旅立った。

戦場にあってなお歌人としての情熱を保ち続けた忠度に感動した俊成は、忠度の願いを受け入れ、詠み人知らずとして採用し、約束を果たしたのであった」。

メモのおかげで琵琶の語りを聴きつつ筋を追うことができた。忠度の次のような言葉は聴きとれた。「一門の栄華つきはて」、「西海のもくずと消えなむは必定なり」、「言の葉の世に咲く春を楽しみに、あの世へ参り候ふべし」、「哀れをおぼしたまはれ」。これに対し俊成は「お志は夢に忘れまじ」、「お心安くおぼしめせ」などと答えた。そうした語りの節々に琵琶がべんべんと響く。

世の中が鎮まり、千載集が編まれることになると、「俊成そぞろに思いいで故郷の花の一首を選びて載せにけり」となる。そして〈さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな〉と坂さんは謳いあげ、ひときわ高く琵琶をかき鳴らした(左下写真)

そこで前半の演目が終わり、20分の休憩となった。私は坂さんの近くに行き、一言挨拶し、坂さんも破顔一笑して応じた。坂さんには多摩稲門会の文化フォーラムでも演奏してもらったことがある。以来、坂さんから薩摩琵琶の演奏の案内をいただいているのだ。                                          (2024・12・20)

坂麗水さんの薩摩琵琶・「平家物語」より(下)

屋島の誉(那須与一の扇の的)

鎌倉稲門会が長寿寺で開いた古典芸能観賞会は、坂麗水さんが薩摩琵琶の後半の演目として「屋島の誉(那須与一の扇の的)を奏した。演奏に先立ち坂さんは琵琶の種類と歴史、平家物語について解説した。そして有名な屋島での那須与一が扇の的の射手として指名された事情についても説明した(左写真)。

源義経が扇の的の射手を募るが、並み居る武将は名乗り出ない。失敗した場合、家の存続が危ぶまれるからだが、那須与一は那須家の十一男であり、その心配がないことから射手に指名されたという。坂さんは「ほんとうは哀しいお話です」と言った。

「屋島の誉」についても以下の鑑賞メモがあり、薩摩琵琶の演奏を聴きつつ追うことができる。

「一の谷で敗れた平家は、讃岐屋島の内裏に陣を構えるが、ここも義経に攻められ海に逃れた。

海には平氏、陸には源氏。双方勝敗が決まらないまま夕暮れて,戦は一旦収まる。この時、平氏方から小舟が一艘漕ぎ出て、舳先に立てた日の丸の扇を射よと、さし招いた。これを見た義経は、那須与一に射よと命じた。与一は拒みきれず、失敗すれば自軍の恥と死を覚悟して臨んだ。

時は元暦2(1185)年2月18日のことであった」。

薩摩琵琶の中で那須与一は宗高と呼ばれる。麗水さんは「壇ノ浦の夕間暮れ」と語り出し、「女房立ち現われ、日の丸の扇を突き刺し押し立て、これを射よと招きける」と続く。義経の命で宗高は馬を海に入れる。「北風激しく、磯打つ波も高ければ」という状況で馬の足も扇も揺れて定まらない。南無八幡大菩薩などと「心こめてぞ祈りけり」、「この念力や通じけむ風も途絶えて駒も扇も静まりぬ」となる。そして見事に射る。その時が見方も敵もなく「鬨(とき)をあげにけり」と謳い、琵琶をかき鳴らして終わった。

全くの余談だが、ほぼ一月前の11月13日、小豆島から高松へ向かう途中、屋島(左写真)を見たことを思いだした。その旅に同行した友人が那須与一の話をしていたが、その時は薩摩琵琶で「屋島の誉」を聞くことになるとは思ってもいなかった。                                                        (2024・12・21)

鎌倉の長寿寺の庭

鎌倉稲門会の古典芸能鑑賞会が坂麗水さんの薩摩琵琶を聞く会を開いた際の会場、長寿寺には初めて訪れた。以前、北鎌倉駅から円覚寺、明月院を経て建長寺に向かう途中で見かけたが、拝観できる日が季節ごとに限られているため門前から庭の一部を眺めただけだった。12月10日も一般は拝観できない日だったが、薩摩琵琶を聴く一人として寺内に入ることができたのだ。

大通りを歩いていると、右側に石段があり、上がると門前に立つ。そこにある案内によると、長寿寺は足利尊氏が没後、足利基氏が父の菩提を弔うため建立した。右奥の観音堂は奈良の古刹である円成寺の多宝塔を大正時代に移築、改造したもの。境内奥に尊氏の遺髪を埋葬した墓がある。

境内は庭が美しい。拝観順路に従って観音堂(左写真)へ。周囲の紅葉が映える。堂内には観音菩薩像が祀られている。

石段(右上写真)を上がると、足利尊氏の墓標があり、石塔が立っている。そこに遺髪が納められているのだろう。そこから木の間を透いて観音堂が見える。お堂の裏の紅葉が美しい。その先の石段を下り、本堂の裏を回って庭に出た。ちょうど一周。寺の中から門の外を見る位置だ。                        立ち入り禁止の道があり、その先の庭には二匹の蝦蟇の像が置かれている。境内は広くないが、変化に富んでいるという印象だ。

薩摩琵琶を聴いて休憩時間になった時、本堂の廊下から庭(左写真)を見た。右手に門、左奥に観音堂、その間の庭に紅葉した楓が立っている。

薩摩琵琶の奏者、坂麗水さんからも庭を散策してくださいというメッセージをいただいていた。俳句三昧の日々を楽しんでいる身としては吟行にもなったわけだ。

鎌倉稲門会・古典芸能観賞会の企画のおかげで平家物語の世界を楽しむとともに古刹の庭も愛でて老いらくの一日となった。(2024・12・22)